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お客様の旅日記

第6回:ナマタン紀行・ミャンマー

ペン イメージ画像 ふろんてぃあタウン工房:瀬川基之さま、森田忠志さま、森下毅一さま



ふろんてぃあタウン工房は、URワンダーフォーゲル同好会OBを母体として、山と共に生きる地域づくりを目指して設立されたNPO法人です。
ミャンマー・チン州のナマタン国立公園に聳えるミャンマー第三の高峰、ナマタン(英語名ビクトリア山 標高3,053m)の魅力とその山麗の暮らしを紹介するガイドマップを作成しようと、2015年11月16日から1週間の行程で、トレッキングルートや自然植生を調査する3度目の遠征登山を実施しました。(第1次は2013年3月・第2次2014年3月)

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いざナマタンへ


成田発AM11:45予定通り離陸したANA直行便は一路ヤンゴンへ。ベトナム・タイ上空を過ぎやがてヤンゴンへと機首を下げると大きく蛇行した大河が何本も見え緑が濃い。現地時間のPM4:20着(日本時間PM6:50)
民族衣装ロンジー姿のガイド・チョーさんの出迎えを受ける。11月でもここは南国、暑い。空港のロビーには翌週の仏教行事カティン祭(11月25日満月の日)に僧侶へ寄進するかざり物が置かれている。熊手状のものに袈裟や傘や大量の紙幣を長く貼ったもの等でかざられている。その前には扇風機も置かれ、これら全てを寄進するとのこと。

ミャンマーの国土は、面積68万平方キロメートル(日本の約1.8倍)
人口5,141万人
首都ネピドー
民族はビルマ族(約70%)、その他多くの少数民族が暮らす。
通用語はミャンマー語(ビルマ語)
宗教は仏教(90%)、キリスト教、回教等である。

その中で、この国の西部に位置するチン州は、面積3万6千平方キロ、九州とほぼ同じ面積だ。人口53万8千人、九州1,323万人の僅か4%にしか過ぎない。チン族とビルマ族が暮らす。国内でもかなり貧しい部類に属する地域である。主要産業は、農業、畜産業、林業であり、この辺りの主力農産物は、オレンジ、マンゴー、アボカド、ヒマシ油を採るトウゴマ、茶、そして全て日本向けの輸出品であるコンニャク芋(輸出高;年間30億チャット≒3億円)であると言う。
ヤンゴン市内は大渋滞(市内へのバイク乗り入れは禁止)。ミャンマー料理店で夕食の後ホテルまで送ってもらい、明朝は早い出発なので早々にベッドに入る。

2日目 ヤンゴンからバガンへ


翌朝AM6:05発 7Y121便は双発のプロペラ機。隣席のロンジー姿の若い女性は座席であぐら座りなので少々こちらに越境。イラワジ川(エーヤワディ川)に沿って500km北上しニャンウー空港(バガン)へ。イラワジ川は大河だ。川幅も広く氾濫原も広大な荒野だ。

 

Anawrahta橋
Anawrahta橋

1時間強の飛行中、眼下の大河はまるで台風の後の造成地にできた水みちの様に蛇行し、広大な湿地を形成している。その中に、ごくまれに集落や田畑が点在するほかは、道も橋も殆ど見あたらない。ミャンマーは乾季(10月下旬~3月)を迎えたばかりだ。この雨季(4月~10月)には大洪水があった。その爪痕が生々しく残る氾濫原が見える。
オールドバガン上空にさしかかると無数のパゴダ(仏塔と寺院)が見えてくる。古くは8世紀、主には11世紀から13世紀にかけ、バガンの初代王朝がモンゴルによって滅ぼされるまでの間に王族や権力者達によって寄進された3,000を超えるパゴダ遺跡群だ。国民の9割が敬虔な仏教徒であるがゆえに、今もなお1,500基を超えるパゴダ遺跡が日常の信仰とともに大切に守られている。観光用の熱気球も沢山上がっている。

ニューバガンのチョーさんの実家(軽食堂)で家庭の味、モヒンガーをご馳走になり朝食。あっさりとしたスープに冷麦の様な太さの米粉の麺が美味しい。日本人好みだ。街道の村に点在する食堂は何処も無料休憩所だ。何も注文しなくても緑茶とお茶請けのラペッ・ソー、ゴマ、ピーナッツなどが振る舞われる。発酵茶ラペソーのラペとはお茶、ソーは湿ったという意味だ。タンニンの渋みに、ゴマ、干しエビの混ぜ噛みが良く調和して旨い。


Padonmar Restaurant Yangon モヒンガー
Padonmar Restaurant Yangon モヒンガー


ハードなアプローチ・カンペレ村の登山基地へ


今日から3日間行動を共にする2台の4駆(トヨタランドクルーザー、三菱パジェロ)が待っていた。運転手はロンジー姿でゴムゾーリである。イラワジ川に架かる有料橋、アナウラフタ橋を渡りマンダレー管区、マグウェ管区の牧場地帯を抜けて丘陵の疎林地帯やバナナ園を通っていよいよチン州向かう。7~8時間の行程である。道は舗装されているが凸凹が多く振動が激しく車はかなりスピードを出している。車窓からは高床式の粗末な住宅がまばらに建っており、沿道にはところどころに飲食店らしきものもある。バナナ、ビンロウヤシ、タマリンド、アカシアなどの南国的な植物が多く目につくようになる。ビンロウの実は噛みタバコの中身、タマリンドの果実はキャンディーの甘味料に利用されている。
バイクも多くなり水牛の牛車やスクラップ同様のバスや荷台に大勢の人が乗った小型トラックが何台も走っている。どこまでも平坦な原野や畑が広がる中をひた走る。時々人が荷物を頭にのせて歩いている姿を見るが集落らしきものは全くなし。油井が点在する乾燥地帯にさしかかる。乾燥地帯は荒涼とした砂地の丘陵である。一つ々の油井は小さめであるが、数がある。掘削ポンプがゆっくりと稼働している。ここからパイプラインが中国まで延びているとのこと。
油井地帯を抜けるとチャウという村へ到着。大きな市場があり、周辺には食堂や消防署などもある立派な村だ。市場には日用品雑貨、衣類、生鮮、果物、穀類、お茶(ラペ)、魚醤、油、キンマ(ビンロウジ)店、漢方薬、骨董屋、貴金属店等々、何でも売っている。魚は大きな鯉や鯰等の川魚だ。肉屋には山羊の肉もぶらさがっている。



チャウのキンマ店
チャウのキンマ店

チャウの市場 魚醤とスパイス
チャウの市場 魚醤とスパイス

近郊の村から人々が集まり、中は混雑しなかなか前へ進めない。魚醤の臭いは強めで周囲にたちこめている。店では味噌の様なペースト状の塊で売っている。万能調味料であるがゆえに、殆どの料理に使われる。キンマ店とは、噛みタバコ屋だ。檳榔子つまり、ビンロウヤシの実を噛むことはアジアの広い地域で行われている。売手をはじめ、ほとんどの女性は顔にタナカを塗っている。

市場見学後しばらく行った集落の小学校に立ち寄る。高床式の粗末な校舎に全校生徒は20人ほどで1年生から5年生。復式授業で先生は2人しかいない。丁度昼休みの子供達が出迎えてくれる。5才から小学校入学、3~4才の未就学児童も一緒に居るが授業中は静かにし、休み時間は一緒に遊び、予め学校経験を積む方式は良いシステムと思われる。この国は教育に熱心だ。大人と同じ様にタナカを顔に塗った子供達は、素朴で皆目がかがやいている。底抜けに明るい子供達の笑顔に見送られ学校を後にする。


小学校 小学校 黒板が三つある
小学校 小学校 黒板が三つある

車は建設中の橋を横目にソー川の清流を四輪駆動で渡河して、ようやくチン州のソーの町に入る。ソーまでくると今日の目的地も大分近づいてきた感がある。これまでの平坦な地形も終わり、緩やかな登り勾配となってくる。街を通過するには、入り口と出口のチェックゲートで必ず通行料を払わねばならない。この入域料は道普請にでも使うのだろうと思ってチョーさんに聞くと、専ら町のパゴダ(仏塔)の建設費用に充てられるのだそうだ。仏教が暮らしの中心にあることを思い知らされる。ソーの町は比較的大きな町だ。立派な寺院や病院、高等学校もあり、市街地には商店、住宅も多い。オール竹材で出来た高床式住宅だ。アカシアに似たイエローローズという木の黄色い房状の花が見事に咲き誇っている。

徐々に標高が上がりナマタンを抱く山岳地帯が遠くに聳えている。途中あちこちの道路工事個所では徐行や停止をする。道路工事は家族総出で働いており素手で石を並べ砂利を敷く。タールが撒かれた所へ14~5才の女の子がザルで砂を運び、それを他の子が手で広げてゆく。道路脇では小さな子供が遊んでいる。海抜300m位であろうか、竹林や巨大なフタバガキ(ラワン)の樹林が目立ってくる。600mまで上ると山の斜面に移動農地(焼畑地帯)が広がっている。山焼きの後には、高級木材であるチークの植林、パパイヤやトウゴマの栽培が行なわれている。中でも国の重要産材であるチークは、一定の太さになると全てが国有財産として管理番号が付られ、厳重に管理されるのだそうだ。葉は大きくホウノキに似ている。葉はホウ葉焼きの様に料理にも使うそうである。

車は、どんどんと高度を上げ、午後2時30分、ようやくカンペレ村に在るナマタン国立公園の小さな公園事務所に到着した。標高1,300m平地との温度差は10度はありそうで、薄ら寒く、セーターやダウンを着た人々もいる。カンペレ村には、小さな商店街を中心に診療所、仏教寺院、キリスト教会、回教モスクがあり、これを取り巻いてビルマ族とチン族の暮らす集落がある。因みに、チン族は土着の伝統信仰であるナツ神も信仰する。商店街には、八百屋、魚屋、雑貨屋、菓子屋、衣料品店、バイク屋、ビデヲショップ、投票所に使われた小さな集会所等がある。チン族の集落は、そこから山道を谷に降った周囲にある。

公園事務所は、丘に建つ小さなビジターセンターと事務所、宿舎、公園内の貴重なデンドロビウム(ラン)の植物園で構成されている。ランの見頃は雨季の5月だそうだ。5月には雨季の中休みがあると言うが、それでも、その時期にここまで来るのは大変だろう。事務所長は、首都ネピドーへ出張のため不在。着任間もない女性副所長のヌェーニ・ミソウーさんと、15年駐在していると言う女性スタッフのオ・マセインさんが応対してくれた。副所長に我々の訪問の意図を伝え打合せ、翌日、公園のレンジャーでオ・マセインさんのご主人、アウン・ティーさんが山のガイドとして随行してくれることになった。ランの植物園を見学、公園事務所をあとにした。


公園事務所 ランの植物園
公園事務所 ランの植物園

標高2,000mに建つ今夜と明日の宿舎となるスカイパレスホテルに到着した時刻は、午後4時過ぎ、木造のコテージは綺麗で落ち着いたリゾートな雰囲気だ。小さなバルコニーに出てみると、まさにパノラマ、雲海に浮かんだ山脈が眼下に黄昏てゆく。コテージ群の外構も美しく、何より自然景観が素晴らしい。昨年オープンしたばかりで、さらに施設を増設中である。ただ、麓のソウ川の水力発電所(日本のODAで造っているらしい)がまだ完成していないため、電気は自家発電で夜6時過ぎから10時までしか使えない。あとは真っ暗闇で、早々にやすむか満天の星を眺めるしかない。


スカイプレイスヴィラ
スカイプレイスビラ


3日目 ナマタン・トレッキング


11月18日(水)朝早く目をさましベランダに出ると、びっしりと雲海が立ちこめている。


スカイプレイスヴィラ
ホテル2,000メートルの御来光

東の空は染め始めており、日の出を待つ。これまで経験した中で、最南端でのご来光を迎える。昨日の夜より気温も上がりそれほど寒くなく、雨の心配もほぼ無さそうで一安心。朝食を摂り、ホテルが用意してくれたランチボックスを持ち、公園ガイドのアウン・ティーさんをピックアップして、いざ四駆に乗り込む。

ホテルスタート8:10、標高2,700mのトレッキングスタート地点まで、カンペレッ・マッタビ・ロードの悪路を駆け登る。山腹の斜面に櫻が満開である。距離があって確認出来ないが、強めのピンクで俯き加減の花が見事に咲き誇っている。日本で言えば、カンピザクラかヒガン系のサクラに近い感じである。花が小さくて白い11月ザクラ(冬桜)とはあきらかに違う。もともと、寒さを越さなければ咲かないサクラに、この時期を好んで咲く種類があることが不思議だが、彼らのルーツはチベットにあると言うから、その苛酷さから多様な種が派生してもおかしくは無いのだろう。


サクラ
  山腹の斜面のサクラ

午前9時頃カンペレッ・マッタビ・ロードと別れて登山口に向かう。別れた街道は、アラカン山脈の尾根を北上している。これを更に500km北上するとインドの、あのインパールに到達するチン州ティディム道につながる。かつて、15万の英軍と戦うため、インパール作戦に投入された9万の日本陸軍の内、7万の兵士達が退却した街道だ。飢えに苦しみ負傷した体を引きずってこの道を退却し、無事に帰還できた者はわずか2万名、死体が点々と折り重なっていた道には、白骨街道の名前がつけられた。その光景を思い浮かべ胸が悼み感傷に浸りながら、標高約2,700mの登山口に到着( 9:15)。

登山開始 9:30 トレッキングのスタート地点には、ビルマ語と英語で書かれた国立公園の注意看板があり、コースタイムをとるための健脚調査班と撮影・植物調査班との二班体制で、それぞれのペースで登る。道はほぼ尾根の左側にあり、時々尾根を横切り右側にでるが、すぐにまた左側にもどる。道は山を削った未舗装のスーパー林道といった感じだ。バイクが数台追い抜いて行ったり下って来たりする。広々とした斜面には石楠花やつつじの仲間が多く、一斉に咲く時期は見事だろう。健脚班は、コースタイムを取りながら、どんどんと先を往く。その後ろ姿は、みるみる小さくなり、やがて撮影・植物班の視界から消えた。


サクラ
登山道からの景観 登山口で集合写真

尾根の湿地

高山植物

出発して間もなく、ガイドのアウン・ティーさんが道に山猫の糞を発見した。どうやら、ここでの食物連鎖の頂点はこのヤマネコと山羊のようだ。リスは見かけたが、サルやクマは居ないそうだ。時々立ち止まってめずらしい花を写したり、メモを取ったりしながら静かな南国の山歩きを楽しむ。しかし、残念ながらガスっていて遠くが見えず、現在地が確認できない。しかし、今回の目的である詳細なコースタイムはとれないが、道はしっかりしており迷うような個所はない。沢状の場所でも、どこも水は流れていない。最初のピーク状の所をまくと道は下りとなり、辺り一面アザミの群生地となっている。


オークの森 ツボスミレ

熱帯モンスーンでも11月の高山は小寒い。それでも、咲き誇っている秋の高山植物の種類の多さには驚かされた。まだ、お花畑の名残が残っている。秋のキク科のものを中心に30種余りが観られた。可憐なツボスミレやリンドウが印象的だ。ガイドのアウン・ティーさんによれば、花のベストシーズンは、お花畑とランが充実して楽しめるのは5月の雨季の中休み頃だそうだ。それでも、日本の高山植物と、どこか似ている多くの花を愛でた。

ロードデンドロン トリカブト

残念なのは、ロードデンドロン(ツツジ科のシャクナゲ)の樹齢数百年という古木林についた無数の蕾が、一斉に深紅の花を開花させる、ほんの一週間前に来てしまったことだ。見られた花は、たった2輪だけだったが、美しかった。11月下旬、山腹一面がこの花の赤に染まる季節は、きっと一見の価値があるだろう。高山植物で特に目立ったのはトリカブトである。大陸性の種であろうか、鮮やかな紫の兜が並んでいる。しかも、いたるところに群生している。アルカロイド系の猛毒、アコニチンを持ち、漢方では、根を附子(ぶし)と称して薬用にする。アウン・ティーさんに、この事を聞いてみたが全く知らないとのことだった。チン族は弓矢を使う狩猟の名人がいると言うから、きっと、チン族の村ではこの植物が使われているはずだ。

登山道での出会いは結構多彩である。欧米ではビクトリア山として良く知れた山なので、フランス人の団体、イスラエル人のカップル、陽気なバックパッカーのドイツ人青年など、欧米人の登山者は多い。頂きに向かう最後の登りでは、麓のチン族の村からやってきた女の子たちが下ってきた。
健脚班パゴダピーク着(AM11:25着 10,132歩)ハハコ草に良く似た丈の高い花と紫色の花が一面に咲いている。頂上には立派なパゴダがあり、その周りには供物が並べられている。公園事務所の作業員と思われる男性が看板の様なものを作っている。撮影・植物班を待つ間作業を見ていると、山刀一本で角材を切りその断面は鋸で引いたようにきれいに仕上がっている。(山刀一本でなんでもやるようだ)さすが標高3,000Mを超える山頂は南国とはいえ長く居ると寒い。温度計を出すと18℃だが、ガスっていて風もあるせいかそれ以下に感じる。震えながら待つこと1時間、撮影・植物班12時25分ナマタン山頂に到着し合流。みんなで記念撮影、東京のミャンマー料理店に待機していたメンバーに衛星携帯電話で登頂報告、そして、地べたに座り込んでランチボックスをひろげた。寒かったけれど、ホテルで用意してくれたチャーハン、ビーフン、焼きそば、バナナ、どれも美味しかった。山頂はパゴダピークと第1・2次隊の時にはなかった大理石造りのブッダが鎮座している三角点ピークの2つのピークが尾根で結ばれている。登山道も大仏運搬のために、だいぶんと拡幅されたとみえる。


サクラ
山頂のお花畑 ナマタン山頂のブッダ
ナマタン山頂 山頂への尾根
 
チン族の女性たち  

13時30分下山開始。下りは徹底的に脇道を案内するようアウン・ティーさんに頼んだので、帰りの山歩きの方が爽快であった。夕方近く、メンバーの一人が轍で転んで足を痛め、ゆっくりと歩いていると、後ろから大勢人が乗った小型トラックが近づいてきて止まる。大けがをした人を病院に運ぶ途中だが、その車に乗れと言われ同乗させてもらう。なんと親切で心優しい人達であったことかと感嘆した。登山口着16:21(約23,000歩)14km

コテージへ向かう途中霧が濃く前方が良く見えず徐行運転。しばらく下りやっと霧が晴れてきたので安心する。コテージはまだ電気が点かずヘッドランプを点けて荷物を整理。今日はお湯もたっぷり出てシャワーを浴びのんびりする。昨夜はベッドに入ってから寒かったので、今夜は備えてある湯たんぽを使うことにする。まさかこんな南国で湯たんぽの助けを借りるとは思わなかったが、おかげでゆっくり眠れそうだ。



4日目 バガンの遺跡観光に向かう①


11月19日(木)朝起きると乾季の時期にはめずらしく雨が降っている。食堂へ行くにも傘が必要なほどの降りで、山に登る日でなくて良かった。朝食後ホテルの素朴な人達に送られて出発。遠くに見える山の斜面には焼畑の痕跡があちこちに見えるが、予想していたより少ない。行きに道路工事中だった個所もかなり工事が進み人力のすごさを感じる。カンペレ村まで下ると雨もほぼ止んでおり村を見学。店もあり生活必需品はほぼ手に入るようだ。


カンペレッの商店
カンペレッの商店

病院や診療所もあり、ちょうど出勤途中の赤い制服のロンジー姿の看護師さんが前を歩いていた。村の中のかなり立派な家にお願いし庭を見せてもらう。マンゴー、パパイヤ、バナナ等の南国フルーツの木や野菜、ハーブ類が多数植えられており、必要な都度採ってきて使うとのことでうらやましい。



カンペレッの商店
看護師さんたち


再びしばらく走るとソーの村に到着、ここでも村の見学をし買物をする。
近くに小さな保育園があり立ち寄る。ボランティアでやっているという女性の周りには子供達が集まっていたが、我々を見ると一斉に部屋から出てくる。元気な子供達の目は皆輝いており笑顔である。みやげの菓子を渡すと大喜び。別れる時にお礼にと元気な声で3曲も歌ってくれた。



ソー村の保育園
保育園の子どもたち

今日の運転手はカンペレ村出身の若者で山道でも飛ばしたが、一般道でもクラクションを鳴らし遅い車やバイクを蹴散らしスピードを落とさない。道草も少なかったが、行きに比べてかなり早くバガンに到着。



ホテルはレンガ風の建物でプールも有り快適そうだ。久しぶりに24時間電気がつきエアコンもききお湯もたっぷり出る。バスタブにゆっくりつかり、夕食までのんびりするつもりだったが、時間があるのでイラワジ河までブラブラ散歩に出かける。



ソー村の保育園
イラワジ川の黄昏

夕方でも外は暑い。丁度太陽が沈み始め、パゴダや寺院がシルエットとなり雄大な景色だ。対岸に丁度渡し舟が出るところで沢山荷物をかかえた人達が乗っている。対岸には集落が見えないので向う岸に渡ってもかなり歩くのだろう。川で沐浴する女性や、近くの井戸で汲んだ水を大きな容器に入れ荷車で運ぶ人達がいたり、見るもの全てがめずらしい。



ソー村の保育園
水浴をする女性(渡し船の横)

帰り道を歩いていると行きにあった2頭の犬の死ガイは無くなっていたので、昼寝中だったのだ。あまりにもだらしなく無防備なかっこうなので、てっきり死んでいるものと思った。沢山の犬が歩きまわっているが皆おとなしい。まるでここは犬の天国のようだ。(つながれている犬はその後どこでもみられなかった)

夕食はディナーショー、立派なレストランで民族舞踊や操り人形劇などを最前列の席で見物。日本人観光客の団体も大勢来ている。ナマタン調査のミッションから解放されショーを見ながらゆっくりと食事を楽しむ。明日からはバガン遺跡の観光だ。


ミャンマーの民族舞踊  


4日目 バガンの遺跡観光に向かう②


翌11月20日、さすがに熱帯モンスーンのバガンは夏日だ。半袖、短パンでも汗ばむ。遺跡観光は、チョーさんの見立てで上に登れる数少ないパゴダの内、空いていて穴場のビゥ・レティ・パゴダに先ず登ってスタート。パゴダや寺院に入る時は裸足とのことなので、昨日途中の村で買ったゴムゾーリで出発。


ビゥ・レティ・パゴダ パゴダで記念撮影(バガン)
ビゥ・レティ・パゴダ パゴダで記念撮影

朝日が眩しいパゴダの上層では、土産物の砂絵を売る現地人の他は、フランス人の一組以外には会わなかった。比較的小さなパゴダであるが、確かに穴場で遺跡群への見晴らしも360度のパノラマで素晴らしい。



ビゥ・レティ・パゴダ
ピウ・レティ・パゴダからの眺望

次にニャンウーの市場へ移動し見学。ニャンウーは交通のターミナル、交易の中心地でもあることから、市場の規模も大きく商品も豊富で大勢の人で賑わっている。


ニャンウーの市場  

海外旅行の楽しみの一つがその国の市場を見ることなので、珍しい野菜や果物、魚などを見ているだけで飽きない。何に使うものかまったく理解できない道具があったので、聞いてみると入れ墨をするための道具であった。



   

遺跡観光は敬虔な仏教徒、チョーさんの独壇場だ。シュエズィーゴォンパヤー、グビャージー寺院、ティローミンロー寺院、アーナンダー寺院と矢継ぎ早。もう、早くも何処がどこだか判らなくなった。


アーナンダー寺院 シェーズィーゴオンパゴダ

ティローミンロー寺院の境内には市がたっている。土産物の砂絵や小間物、織物、操り人形、骨董など様々色とりどりだ。縁日の小間物屋で、私たちは翡翠のモルモット(森田)、私は象の骨で出来たガルーダ(森下)を買った。どれも、自分が生まれた曜日の守護動物だ。ミャンマーでは、自分の生まれた曜日に因んだ動物を守護神とする信仰がある。何曜日に生まれたかが重要で、名前には必ず生まれた曜日の音が付けられるのだそうだ。だから、名前を見聞きすれば何曜日生まれかは一目瞭然だ。因みに名字は無いそうだ。




ティローミンロー寺院


森のレストランSarabhaⅡで昼食を摂り、午後はタラバー門を潜ってオールドバガンの旧宮城内へ。タビィニュ寺院、マヌーハ寺院を巡る。


マヌーハ寺院の巨大な涅槃像 マヌーハ寺院

タビィニュ寺院には、陸軍第33師団(略称、弓師団として知られる精鋭部隊)の日本人慰霊碑があり、英霊の魂が眠る。33師団は、はるか仙台を中心に召集された部隊だと言う。同寺院専属の墓守スタッフの差し出す線香を手向け、戦争の馬鹿々しさと、英霊の無念さとを想い、悲しみがこみあげる中、ねんごろにお参りする。





バガン近郊の村の生活風景見学に訪れたミインカバー村は、竹細工や漆細工、建築材となる竹製品加工を生業とする素朴な観光村だ。露店のミャンマー風クレープ、総菜屋さんのヒョウタンの天ぷらをチョーさんからご馳走になりながら散策。


ミャンマー風クレープ屋さん  

チョーさんの知人の漆職人の家を訪問。竹で編みあげた壺の木地に黒漆を塗り重ね、仕上がった状態では編み竹が素材とは全く判らないほど見事である。



漆職人さん

沿道では、婦人たちが竹を割いて、床や壁、天井、屋根材を編んでゆく。婦人達は実に良く働き活気がある。ミャンマーの一般的民家は、オール竹材製の通気性が高く涼しげな高床式住宅だ。チョーさんが一軒の民家の前で、急に声を潜めたので、何だろうと思うと、放課後の子供たちが集う私塾の前であった。英語のレッスンが聞こえて来る。貧しくとも、ほとんどの子供は塾通いだそうだ。ともかく教育熱心な国だ。



オール竹造の民家
オール竹造の民家


村散策の後は再び寺院巡り。ダマヤンジー寺院はバガンで最大規模のピタミッド状の未完成寺院だ。未完成の理由は、これを建立した王にある。贅沢と拙政を繰り返して民を苦しめ、自らの権勢を顕すこの大寺院建設では、レンガの積み方が雑だと怒って、職人の腕を切り落とさせたと言う。建設は、没後に及んだが、権力の後継者も民の誰もが、その完成を望まなかったために、頂きに尖塔が無い異形な状態で未完に終わっているとの事だ。


ダマヤンジー寺院  

その後、シューサンドーパゴダと巡っているうちに夕暮れ時をむかえた。シューサンドーパゴダの急な石段を手摺にすがって恐る々登って、イラワジ川の対岸に沈む夕陽を眺める。既に多数のテラスは多国籍な人々で鈴なり状態だ。ここでの夕景は絶景だ。太陽はイラワジの川面を幾筋もの金波で照らしつつ、対岸の緩やかな丘陵尾根にゆっくりと沈んでゆく。尾根にある小さなパゴダが光に浮き上がって見える。やがて陽はバングラディシュやブッダの聖地インドの方角に沈む。西方浄土とは、こんな景色を言うのではないだろうか、これが為に、バガンが仏教の聖地に成ったのではないか、そう思わされた。



シューサンドーパゴダ パゴダのテラスからの夕景
シューサンドーパゴダ パゴダのテラスからの夕景


6日目 再びヤンゴンそして成田へ


翌朝11月21日、またしても5時起き、あっという間の1週間が過ぎ、旅も最終日をむかえた。朝8時25分発のYangon Air1便でニャンウーを発ってヤンゴンへ。10時から最後のヤンゴン市内観光だ。
巨大な涅槃像が聳えるチャウタッジーパゴダへ。全長70mもある巨大な涅槃像は、口紅を塗り、長い睫毛でアイシャドーをつけ、頬に紅をさし、女性的な艶めかしい姿態で横たわっており、電飾で飾られていて、どこかオカマの様である。ここでも、カティン祭り(11月25日の満月の日)にお寺に寄進する供物の飾り物が所狭しと置かれている。籠の中に沢山の小鳥が売られている。チョウーさんによれば、金を払って小鳥を放すのだそうだ。小鳥を放した人は、現世で良いことをしたので来世では幸せになれるとのこと。「小鳥を捕まえて売ってる人の来世はどの様になるのかな?」



チャウタッジーパゴダの涅槃像

午後はアウンサウン将軍の名を冠するボージョーアンサンマーケットを訪れた。小ブースの専門店街が4~5層の建物を埋め尽くす、観光客向けの巨大な百貨店風のショッピングモールである。マーケットに隣接して鉄道駅があり、日本製の車両が行き先表示もそのままに走っている。チン州の織物のみを扱う店をチョーさんが探してくれ、日本へのお土産を購入。


ボージョーアウンサンマーケット マーケット内、チン州の織物店

市街の中心部にあり、金色に輝く巨大なスーレーパゴダ周辺を徒歩で回遊する。チン州ナマタンの地図、植物図鑑を目当てに本屋街を3~4店舗梯子したが、目的の書籍は売られてはいなかった。水かけ祭り用の生け花の小冊子を1,500チャットで購入するにとどまった。街角の電柱に稲穂が括り付けられて売っている。何だろうと訊ねると、スズメに食べさせる供物だと言う。またしても、功徳を得る為に善根を積むという仏教の慣習だ。

最後の見学となったミャンマー最大の聖地シュエダゴン・パゴダはさすがに大勢の参拝者や観光客で賑わっている。上部にある境内まではエレベーターで昇ると広大な境内に大小のパゴダや寺院が有り中には色々な仏像が納められている。最大の黄金に輝くパゴダの上部には4,351個、トータル1,800カラットのダイヤが納められ、先端のダイヤは1つ76カラット。(ルパン三世に狙われなければよいが!)。
あちこちに跪き、熱心に祈る人々や着飾った得度式の一行も居る。仏教徒の男性は20才になる前に必ず一度は僧侶になる。得度式を行って僧侶になり僧院で生活する。広い境内を勤労奉仕の若い女性達が箒を持って横一列に並んで一斉に前進して清掃していく。パゴダの周りは露天の回廊となっており、周囲に各曜日の守護動物が祭られている。参拝者は、自分の生まれた曜日の前で祈りを奉げる。木曜生まれの孫と共有の守護動物のちいさな翡翠のねずみを買い所定の場所で祈る(瀬川)。2日間に及ぶ裸足の生活で、足の裏はゴワゴワになった。今日も土埃で真っ黒である。


パゴダのテラスからの夕景
シュエダゴン・パゴダ 清掃の様子

ライトアップされたパゴダは黄金色が更に輝きを増し美しいが、夕食に向かう道はあいかわらずの大渋滞。救急車(プライベートのみで有料)がサイレンを鳴らしても、どの車も譲らない。あれでは助かる人も病院に着くまでにだめになるのではないかと思う。つくづく日本は良い国であることを再認識する。
しばらく走るとやっと車の流れも良くなり空港へ行く途中のレストランでミャンマーでの最後の食事。店内は時間が早めなので空いている。中華料理とのことだがこれまでのミャンマー料理とさほど変わらず。旅行中日本食が恋しく思ったことは一度もなかったが、もう少し油を控えての調理と、もっとバラエティーに富んだ献立があったらと思う。(日本食はすばらしい!)食後は渋滞も解消しスムーズに空港へ到着。
PM22:10発 ANA NH814便で成田へ。

・・・おわりに・・・
1週間の旅は、相当盛り沢山であったが、まさに束の間の出来事だった。山への長い道中も、ナマタン登山も、仏教遺跡めぐりも、食事も、全てが興味深く楽しかった。慌ただしいスケジュールにも全く疲れを感じなかった。それは、チョーさんという名ガイドに恵まれたからだけでなく、この国の風土や同胞アジアの人々の心根に、どこか思い遣りや優しさを感じ、居心地が良かったからかも知れない。沢山のカルチャーショックを受け、又、日本の素晴らしさを再確認する旅でもあった。

出発の1週間前の11月8日、折りしもミャンマーでは国の総選挙が行われ、アウンサンスーチー氏の率いる野党・国民民主連盟(NLD)が議席の8割を獲得し大勝したとのニュースが飛び込んで来た。前回の総選挙の時の様に、政権移譲を拒む軍政府のもとで何らかの世情不安をもたらすのではないかとの不安を抱きながらの出発であったが、現地入りして、それは全くの取り越し苦労であったことがわかった。誰もが民主化開放に向けた勝利を静かに受け止め発展を信じているようで、この国の活力に未来を感じた。民主化後のミャンマーに大いに期待したい。

皆さん未知の国ミャンマーに是非一度は行きましょう!


ミャンマーチャットの札束を持ってご満悦の森下さん